「康暦2年(1380年) 曹洞宗の出羽の国 布教の祖 瑚海理元禅師によって創建された由緒あるお寺です
みなさまと 『ともに生き、ともに笑い、ともに涙し、ともに歩む』そんなお寺を目指しています」

ごあいさつ

定林寺ホームページをご覧いただきありがとうございます。
定林寺は南北朝時代の応暦2年(1380年)、出羽の国への曹洞宗布教の祖といわれる瑚海理元禅師によって創建された由緒あるお寺です
明治36年に信仰厚い地域の皆さまのお心で建設された本堂は、伝統的仏教文化を体現した荘厳な造りであり、歴史と禅宗の雰囲気を存分に感じられる素晴らしい堂舎となっております。また、お釈迦様の正しいみ教えを根本とした定林寺の社会活動は各方面より注目を戴いております。
これまでも、そしてこれからも定林寺は地域のみなさまと「ともに笑い、ともに悲しみ、ともに学ぶ」を宗教活動の柱として、変化する社会情勢と向き合い、皆さまとともに歩みを進めてまいりたいと考えています。
どうぞ、お気軽にお寺に足をお運びください。充実した生を全うできるよう、ともに歩んで参りましょう。

定林寺 住職 深瀬謙三 合掌

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曹洞宗の宗旨

定林寺の宗派は曹洞宗(そうとうしゅう)といいます。坐禅を修行の中心としている事から禅宗とも呼ばれます。曹洞宗は鎌倉時代に道元禅師によって開宗されました。
お釈迦様から歴代の祖師に伝え来った正しいみ教えを信じ、それを日常の生活に活かしていく事が曹洞宗の教えです。坐禅をし「坐禅の心 そのまま」に生活を営んでいく。仏心による生活を日々送ってこそ曹洞宗の信者と言えます。
「み仏の子たる私達だからこそ、自分自身を深く見つめ、縁あるものを幸せにしていこう」この誓願を、家庭に職場に実践していきたいものです。

曹洞宗開祖 道元禅師

四摂法(ししょうぼう)

道元禅師は修行者の実践徳目として四摂法(ししょうぼう)をお示しになりました。
「布施」= 我欲を捨て、自分の持っている力を他の人に分け与えること。
「愛語」= 心を清め、他を想いやる慈愛の言葉をかけること。
「利行」= 見返りを求めず、ひたすら他のために尽くすこと。
「同事」= 常に相手の立場に立って物事を考え行うこと。

曹洞宗太祖 瑩山禅師

「ともに生き、ともに笑い、ともに悲しみ、ともに歩んでいく。」
この教えに生きるというのが曹洞宗の教義です。

定林寺の開山由緒と歴史

開山由緒

定林寺は、曹洞宗第三の本山、岩手県正法寺を創建された道叟道愛禅師の高弟「法嗣六哲」のひとりである瑚海理元禅師が開山されました。岩手県の永徳寺第二世となった瑚海理元禅師は、大本山總持寺二世 峨山韶碩禅師より授かった「東北地方への曹洞宗教線拡大」という使命を師から相承し、遠く地方に信仰を鼓呼すべく出羽の国(現在の山形県)へ布教の旅に出ます。先々にて信徒を集め多くの寺院を開山されました。定林寺は応暦2年(1380年)の開山と伝えられています。

定林寺本堂外景(矢作作)

「龍口山 定林寺」の名称由来

龍口山という山号の由来は、定林寺が創建された沢畑山には龍が住むという洞穴があり、通称「龍の口」とよばれていたことから、山号を「龍口山」と称したと伝えられています。
また、定林寺という寺号の由来は、「絶対的な心の安心」という意の「定」と、修行の場を意味する叢林(お釈迦様と弟子たちが林の中で修行を行っていたことに由来)から「林」の字を取ったと思われます。「絶対的な安心を得るために、修行生活をともにする寺」という意で「定林寺」と称されたのだと思います。

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現代に語り継がれる定林寺の龍女伝説

定林寺にはこんな伝説が残されています。

瑚海理元禅師が定林寺を開山した夜の事です。禅師が静かに坐禅を組んでいると、突如、絶世の美女が現れ、禅師に「私を成仏させてください」と懇願します。これは人ではないと見抜いた禅師は「その美しい姿はあなたの本当の姿ではないのでしょう?本当の姿を現したら成仏させてあげましょう。」と答えます。すると美女はたちまち龍の姿へと変身し、真実の姿を現しました。禅師は「本当の姿を現してくれましたね。ありがとう。」というと、直ちに筆を執り、その龍の姿を掛け軸に収め、授戒の儀式を行い血脈を授与し、龍女を仏弟子としました。すると龍女は「これで思い残す事はありません。ありがとうございました。ありがとうございました。」と何度もお礼を言ってスゥーッと消えていきました。

それ以降、禅師がその龍の掛け軸を掲げると、どんな日照りの日でも恵みの雨が降ったといいます。それは、成仏させてもらった龍女からのお礼の雨だといわれています。現在、その掛け軸は火災によって焼失してしまいましたが、掛け軸を模写した龍女の絵は天井絵となって禅師の眠る開山堂に掲げられ、今も定林寺を護っています。

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定林寺の歴史

「火災と信仰の戦い」 

~定林寺の宝とは~

南北町時代に東北地方への布教拡大と衆生救済を目的として開山された定林寺は、今日で約650年、現住職で34代となります。この間、多くの僧侶を輩出し、4ヶ寺のお寺の開山を行っております。
定林寺の歴史は火災と信仰の戦いでもありました。元禄16年(1703年)の火災で伽藍を焼失し、享保二年(1718年)現在の地(谷地城の敷地内)へ移築されました。記録に残るだけでも4度の大火があり、その都度、住職と檀信徒が一体となり、伽藍の復興にあたりました。特に慶應2年の谷地大火では、全町が灰尽となり伽藍の全てを焼失しました。現在の本堂は明治35年(1902年)の再建ですので、築百数十年となります。31世大應虎俊大和尚が「幾多の風雨が侵しても、法燈、今なお定林の峰を照らすは、相承の名徳が介法護灯に尽瘁せられたるが為なり。而して、ここに忘るる能わずは、仏恩の廣大なるに報い奉らんとして、終始油資を投ぜられたる歴代檀信徒の不易の信仰心なり」と振り返っておられます。定林寺が誇れる寺寶とは、住職と檀家、寺壇和合の信仰心であろうと思います。

定林寺本尊 華厳の釈迦(山泉誠作)

「僧侶の育成と衆生の救済」 

~4ケ寺の開山と定林寺叢林の開単、羽陽仏教育児院の創設。そして、現在。~

曹洞禅の布教と衆生救済を目的として開山された定林寺は、その後たくさんの僧侶を輩出します。開山の瑚海理元禅師は、ほどなくして次の地へ巡錫の旅に立たねばならず、自身の法を継ぐ高山行照を定林寺2世としました。高山行照は、師の意志を継ぎ、能く衆生を化導するとともに幾多の僧侶を養成しました。第3世である東傳照光は、村山市樽石に林昌寺を開山、第5世の玉叟真通は、村山市湯野沢に長松院を開山、第10世の庵室能宣は、村山市岩野に萬松寺を開山、河北町西里永昌寺の開山に勘請されるなど、大いに師風を宣揚されました。
また、24世の大底義喬は、定林寺叢林を開単し、修行道場として夙に僧侶の育成に心を注ぎ門下に入る僧侶が跡を絶たなかったといいます。29世の寂湛禅海には、徳山本隆、道隣徳成、大應虎俊、仲田徳明、松田湛堂といった学識高い弟子が多数おり、松田湛堂は、曹洞宗第一中学林教授 兼 曹洞宗大学講師の任に推挙されました。病による早逝でなければ、学長または禅師になったのではないかと伝えられるほどでした。また、仲田徳明は、明治後半期、経済不況により悲惨な境遇に置かれた孤児が社会的問題となっているのを受け、衆生救済のため、定林寺に「羽陽仏教育児院」を創設しました。約30名の孤児を引き取り児童の養育を行いました。この活動は、経済的負担が大きかったのですが、山形県内の寺院が宗派を超えて支援したといいます。
また、慶應の大火にて定林寺はその伽藍の全てを失うことになりましたが、寂湛禅海は伽藍復興に心血を注ぎ、明治36年に本堂再建。荘厳なる落慶入仏式を修行しました。明治38年には、定林寺の新大本堂にて日露戦争戦没者の合同葬が神葬・仏葬の合同式にて開催されました。さらには、曹洞宗中学林長 石月嘉外老師を拝請し、檀信徒の皆を仏弟子とする大授戒会を修行しました。
その後も授戒会は数十年に一度修行され、近年では平成10年に34世圓融謙三の代にて大本山永平寺より喜美候部継宗禅師を拝請し報恩大授戒が修行されました。ご開山が龍女に授戒を施し、仏祖の命脈たる血脈を授与し成仏させたという云われは、今も尚、定林寺の住職に受け継がれ、多くの檀徒に仏縁を結び続けています。
現在では、「みなに開かれたお寺」を寺院の運営方針と定め、坐禅会や仏教講演会、音楽ライブ、漫才なども開催し、多くの人々が集う賑やかなお寺となっています。

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歴代住職のご紹介

【開山 瑚海理元大和尚】

本 師 : 道叟道愛禅師(岩手正法寺3・岩手永徳寺開山)
特 記 : 東北地方への曹洞宗教線拡大の祖である道叟道愛禅師の高弟「法嗣六哲」の第二足。
師は、建武二年(1335年)陸前国石ノ巻日和山城主、葛西武蔵守清貞の第二子として誕生、幼名は鶴若丸四郎。志操の確固たること巌の如く英気溌溂として、父兄とともに南朝の為に奔走していたが、南朝の勢威が地に落ち、北朝の武臣が権力をほしいままとする状況に厭悪し、延文元年(1356年)22歳にて、道叟道愛に就いて仏門へ入った。以来、俗念を捨て道叟道愛の厳粛なる示誨の下、参禅問法一日も休まず証契即通の人となり、遂に道叟道愛「法嗣六哲」の第二足に数えられるようになった。道叟道愛禅師は、師を後継とし永徳寺第二世を禅譲。瑚海理元のもと永徳寺は愈々隆昌し、應安五年(1373年)後圓融天皇より綸旨を賜る事となる。師のもとには、その徳風を敬慕し参禅問法に多くの僧俗が集ったという。

その後、峨山韶碩禅師より授かった「東北地方への曹洞宗教線拡大」という使命を相承し、遠く地方に信仰を鼓呼すべく、永徳寺住職を退董し、出羽の国へ布教の旅に出る。先々にて信徒を集め多くの寺院を開山される。晩年は千葉介兼胤の招請に応じ、現在の千葉県市川市国府台に法王庵(現在廃寺)を結び、祖先以来の菩提を弔いながら応永4年(1398年)4月10日、世寿63歳にて遷化した。

開 山 : 山形県酒田市海晏寺・同持地院・河北町定林寺・長井市正法寺・山辺町普廣寺・川西町永松寺・同積善寺・朝日町永林寺・千葉県佐倉市宗徳寺
示 寂 : 応永4年(1398年)4月10日
法 嗣 : 無為継学・高山行照・東傳照光・相兒良韻・仙泊正能

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【第2世 高山行照大和尚】

本 師 : 瑚海理元
特 記 : 定林寺2世。
瑚海理元禅師が御巡錫の旅に立たれた後、その法を継ぎし師が、定林寺2世となる。能く衆生を化導し、大いに師風を宣揚された。
示 寂 : 応永23年(1416年)5月16日

【第3世 東傳照光大和尚】

本 師 : 瑚海理元
特 記 : 定林寺3世、林昌寺開山。
村山市樽石に林昌寺を開山する
示 寂 : 永享7年(1435年)6月2日
法 嗣 : 暁山祖傳

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【第4世 暁山祖傳大和尚】

本 師 : 東傳照光
特 記 : 定林寺4世、林昌寺2世。
示 寂 : 享徳3年(1454年)7月28日

【第5世 玉叟真通大和尚】

特 記 : 定林寺5世、長松院開山。
夙に大徳の誉れ高く、長松院殿満相冷月居士の招聘に応じ、文明3年村山市湯野沢に長松院を開山する。
示 寂 : 文明5年(1473年)8月10日

【第6世 香室松薫大和尚】

特 記 : 定林寺6世。
示 寂 : 明応元年(1492年)9月14日示寂

【第7世 沈庵祖永大和尚】 

特 記 : 定林寺7世。
示 寂 : 永正8年(1511年)10月4日
法 嗣 : 昌庵文盛

【第8世 昌庵文盛大和尚】 

本 師 : 沈庵祖永
特 記 : 定林寺8世。
示 寂 : 享禄3年(1530年)11月27日

【第9世 唐源禅處大和尚】 

特 記 : 定林寺9世。
示 寂 : 天文18年(1549年)12月18日

【第10世 庵室能宣大和尚】 

特 記 : 定林寺10世、萬松寺開山、永昌寺勘請開山。永禄5年の秋、村山市岩野に萬松寺を開山する。
河北町西里永昌寺の開山に勘請される。
示 寂 : 永禄11年(1569年)1月8日

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【第11世 矢山文的大和尚】

特 記 : 定林寺11世。
示 寂 : 天正15年(1588年)12月29日
法 嗣 : 風山舜察

【第12世 風山舜察大和尚】 

本 師 : 矢山文的
特 記 : 定林寺12世。
示 寂 : 慶弔11年(1606年)3月19日

【第13世 源室壽哲大和尚】 

特 記 : 定林寺13世。
示 寂 : 寛永2年(1625年)4月12日

【第14世 峯庵芳朔大和尚】 

特 記 : 定林寺14世。
示 寂 : 正保元年(1644年)5月7日

【第15世 外巖秀傳大和尚】 

特 記 : 定林寺15世。
示 寂 : 寛文3年(1663年)6月1日

【第16世 哲州誾貞大和尚】 

特 記 : 定林寺16世。
示 寂 : 天和2年(1682年)7月19日

【第17世 縁山哲祖大和尚】 

特 記 : 定林寺17世。
示 寂 : 元禄14年(1701年)8月18日

【第18世 中興 提岸楊全大和尚】 

特 記 : 定林寺18世 中興。
山田氏。学徳兼備の尊宿にして四方の檀徒が帰依する。元禄16年(1703年)の火災により伽藍全てを焼失するも、師を慕い浄財を喜捨する者多数あり什器を整える。また、田畑の寄進も多く寺門の隆盛を企図された。寺領の田畑を得てこれを山門不朽の資材とした。享保2年、細谷五郎兵衛氏をはじめとする信徒の力を得て、杉山の地から現在の谷地へ定林寺を移転する。杉山の地に住した檀徒の宇野惣作氏は、定林寺の本尊を篤く信仰していたため、ご本尊とともに谷地へと移住した。伽藍の復興に力を尽くし、移転を終えた翌年に遷化。その尽力に中興号が授与される。
示 寂 : 享保3年(1718年)9月5日
法 嗣 : 山應廣澤

【第19世 山應廣澤大和尚】 

本 師 : 提岸楊全
特 記 : 定林寺19世。
本師である提岸楊全大和尚の意志を継ぎ、伽藍復興事業を継続する。また、次の有事に備え、杉の木を植栽するとともに、開山以来の境内跡地が湮滅する事を怖れ、定林寺跡地である杉山の地に植杉碑を建立した。
示 寂 : 元文5年(1740年)7月18日

【第20世 徳叟淳良大和尚】

特 記 : 定林寺20世、長松院7世。
宝暦元年に伽藍を焼失、同2年に庫裏を再建し仮本堂とする。また、この時迎えた新たなご本尊(華厳の釈迦像)は、細谷與左衛門氏による寄進である。
示 寂 : 安永7年(1778年)9月11日

【第21世 求法宅隨大和尚】 

本 師 : 山翁澤全
特 記 : 定林寺21世、永昌寺8世 中興、仏性寺開山。
示 寂 : 天明3年(1783年)1月9日
法 嗣 : 傑山文英

【第22世 再中興 仙外耕雲大和尚】 

特 記 : 定林寺22世 再中興。
名徳にして、安永年間に住職となる。宝暦元年の火災により焼失した本堂を安永7年に再建する。師を慕う数多の信者があり、田畑や山林等の寄進多数。寺有財産の根底がより堅固となり、徳叟淳良大和尚、求法宅隨大和尚から続く伽藍復興事業を完了する。その功績と遺徳を讃え再中興号が授与される。晩年は定林寺開創の地である沢畑山に金谷庵を結び隠居し只管坐禅に打ち込む。
示 寂 : 寛政2年(1790年)9月1日
法 嗣 : 祖田耕本

【第23世 祖田耕本大和尚】 

本 師 : 仙外耕雲
特 記 : 定林寺23世。
仙外耕雲の高弟。当時社会は安逸に慣れ、人々が軽想浮花に流れるのを憂い、檀信徒に説法。荒野を購入し自らが開拓し寺領とした。住職自ら勤倹力行の範を示す。
まさに仏恩を解せられた大徳である。また、師は定林寺の由緒歴史を詳定し、屈指の寺格昇給がされた。
示 寂 : 寛政6年(1794年)12月8日

【第24世 大底義喬大和尚】

本 師 : 雪鳳金翎
特 記 : 定林寺24世、長松院12世、萬松寺9世中興、・向川寺34世、瑞雲院30世。
松田氏。知名の善知識、博識強記。定林寺叢林を開単し修行道場として夙に僧侶の育成に心を注ぐ。風発卓励の快論、よく禅裡の薀義を講じ門下に入る僧侶は跡を絶たず、正に名僧であった。
文化8年に鐘楼堂、梵鐘を造る。
示 寂 : 天保元年(1830年)11月1日
法 嗣 : 大光義圓

【第25世 觀山諦音大和尚】

特 記 : 定林寺25世。
文政8年(1825年)、伽藍を焼失、西里の和田兵右衛門宅を買い受け、庫裏を再建。仮本堂とする。
示 寂 : 嘉永元年(1848年)2月1日
法 嗣 : 素峯哲禅

【第26世 丹岡祥鸑大和尚】

本 師 : 徳隣一鳳
特 記 : 定林寺26世、長松院13世、向川寺36世。
本堂再建事業を完遂し、その後向川寺へ転住する。
時代は徳川13代家慶公の代、水野忠邦による極端な節倹令が敷かれており、改修工事は様々な面で困難であったと思われる。
示 寂 : 萬延元年(1860年)10月7日
法 嗣 : 寂湛禅海

【第27世 大光義圓大和尚】 

本 師 : 大底義喬
特 記 : 定林寺27世、長松院18世。
丹岡祥鸑が向川寺へ転住されたため、師が長松院より定林寺へと転住した。
安永6年の秋に山門を建立する。
示 寂 : 文久元年(1861年)5月13日
法 嗣 : 大圓義照

【第28世 圓州文明大和尚】

特 記 : 定林寺28世、長松院18世。
文久3年に定林寺住職として長松院より迎えられる。博学の聞こえ高く、参禅問法の道俗常に雲集する。山門に五百羅漢を安置し、地方稀に見る楼門であったが、慶應2年(1866年)、谷地本町を襲った「慶應の大火」にて伽藍を焼失。町内405軒が焼失、全戸数が964戸であるので、その42%が焼失するという未曽有の大火であった。定林寺も、本堂、庫裏、山門とその全てを失う事となる。
示 寂 : 慶應2年(1866年)6月25日

【第29世 再々中興 寂湛禅海大和尚】

本 師 : 丹岡祥鸑
特 記 : 定林寺29世、定泉寺。
巨勢氏。慶應の大火にて被災に逢った定林寺を復興すべく、定泉寺より転住。火災で焼失していた伽藍復興に心血を注ぎ、大富村羽入の植松伝兵衛の家屋を購入し仮本堂とする。その後、弟子の徳山本隆に住持職を譲り、自身は金谷庵に住するも、徳山本隆が向川寺住職に転住し、再び定林寺住持へ。明治35年には、庫裏、本堂の再建に着手、翌36年8月1日に荘厳なる入仏式を修行した。この再建事業においては、三宝への帰依の念篤き貴族院議員、細谷巌太郎氏の母堂による多額の浄財寄進があり「定林中興」の法号を授与したとされる。
明治38年8月8日には、定林寺の新大本堂にて日露戦争戦没者の合同葬が神葬・仏葬の合同式にて開催された。また、年月は不詳であるが、寂湛師が戒師となり授戒会が開催された。説戒師には曹洞宗中学林長、石月嘉外師を拝請した。
師は、困難窮まる再建事業の完遂に加え、その徳風により、再々中興号を授与された。
また、明治後半期の社会問題に、貧児、孤児、棄児といった問題があった。この現実を見た定林寺学僧の仲田徳明は、明治38年、孤児を保護する「羽陽仏教育児院」を創設し、定林寺において開院式を行った。徳明和尚が理事となり保育士も雇用し、育児院の形式は整ったが、保護する孤児の数も段々に増え、経営は常に逼迫していた。明治42年の経営状況報告によると育児総数28名とあり、徳明和尚は子ども達への基金勧募に奔走した。師である寂湛禅海住職が後ろ盾となり、この育児院には村山地方の寺院は宗派を超えて支援し、特に曹洞宗の寺院は、村山、置賜、庄内地方でも其々托鉢を行い、その全額が育児院の運営に充当された。徳明和尚は師である寂湛和尚同様、温和で慈悲深い人であり、多くの支援を得、世間が注目するところであったが、病を得て大正5年病没された。
示 寂 : 大正3年(1914年)5月7日
法 嗣 : 徳山本隆・道隣徳成・大應虎俊・仲田徳明(羽陽仏教育児院理事)
松田湛堂(曹洞宗第一中学林教授 兼 曹洞宗大学講師、龍昌寺)

【第30世 徳山本隆大和尚】

本 師 : 寂湛禅海
特 記 : 巨勢氏。定林寺30世、龍護寺25世、金勝寺23世。
師である寂湛禅海の後継として住職となるも、程なく龍護寺へ転住。
示 寂 : 明治42年(1909年)8月1日
法 嗣 : 徳瑞孝天

【第31世 大應虎俊大和尚】

本 師 : 寂湛禅海
特 記 : 定林寺31世、龍昌寺。
井苅氏。大正元年、師である寂湛禅海の綸旨により龍護寺より転住。定林寺31世住職となる。29年にわたり定林寺の法灯を護り、宗風の宣揚に努める。大正3年に鐘楼堂を再建。大正7年に定林寺の歴史をまとめた「定林小史」を刊行。昭和8年には授戒会を修行する。多くの檀信徒に仏縁を結ぶ。
示 寂 : 昭和15年(1940年)5月26日
法 嗣 : 俊巖英隆

【第32世 玄嶺太観大和尚】

本 師 : 大仙嶺芳
特 記 : 定林寺32世、清龍寺。
新田氏。大應虎俊遷化の後、清龍寺より転住。
示 寂 : 昭和19年(1944年)7月14日
法 嗣 : 玄叡秀一

【第33世 贈永平西堂 大教師 大圓清矩大和尚】

本 師 : 圓山清成
誕 辰 : 大正2年3月10日
俗 姓 : 市川氏。新庄市 英照院にて出生、英照院29世 碩翁和尚の三男。
嗣 法 : 昭和5年4月8日 英照院29世 碩翁和尚について得度。
昭和13年 英照院30世 清成和尚(実兄)初会にて立身。
同年8月30日 清成和尚の室に入り嗣法。
同年9月23日 河北町谷地 宿用院38世初住。
昭和31年 清成和尚の遷化を受け、英照院住職を兼務。
昭和37年 英照院住職を浩志和尚(実弟)に譲り、退董。
昭和39年5月19日 定林寺へ転住。(33世拝命)

特 記 :  学生時代は柔道に励み、「駒沢の虎」の異名をとった。学生選手権大会では、時の日本一の実力者 木村政彦と決勝で争い、敗れはしたものの 2度の延長戦を戦うなど、その実力は誰もが認めるところであり、後年 日本講道館柔道7段まで昇段した。
大学卒業後は大本山永平寺僧堂研究科に入校、約1年の坐禅修行に打ち込む。 昭和18年 県立寒河江中学校教授に委嘱され教鞭をとるも、終戦後の混乱を収拾すべく、仝21年教職を退き政界に進出。谷地町議会議員を経て、翌22年 谷地町長に当選。以後7期28年の長きに渡り町政を担う。卓越した識見と行政手腕をもって、河北町の礎を築くと共に地方自治の確立と発展に尽力した。その功績は枚挙に暇が無い。
また、宗門においても、昭和28年 曹洞宗宗議会議員に当選。参与した大本山永平寺吉祥閣建設、曹洞宗檀信徒会館建設、太祖大師650回大遠忌などの大事業を完遂する。また、仝50年には 宗門行政の要ともいうべき宗議会議長の職に就任。大教師補任、赤紫恩衣が許可される。任期満了の後、宗門行政の功績により仝53年大本山永平寺顧問となる。
仝57年 遷化を受け、曹洞宗管長より宗門行政への功績を讃えられ、「永平西堂」の称号が授与される。また、内閣府より永年の地方自治功労が認められ、「従五位 勲四等 旭日小綬章」を授与された。また、28年もの長きに渡り町長を勤め、町の発展に寄与した功績が認められ、河北町名誉町民章が贈与された。
要職・表彰・功績 等 枚挙に暇なく、詳しくは河北町図書館蔵「市川清矩の生涯」を参照のこと。
示 寂 : 昭和57年(1982年)12月26日 寿70歳
法 嗣 : 頌雲浩志・圓融謙三・智光興全

市川清矩大和尚

【第34世 圓融謙三大和尚】

本 師 : 大圓清矩
誕 辰 : 昭和19年11月30日
俗 姓 : 深瀬氏。溝延村 南泉寺にて出生。
南泉寺20世 宏覚和尚の三男。
嗣 法 : 昭和44年3月4日 清矩和尚(当時 定林寺住持)の室に入り嗣法。
昭和47年6月10日 新庄市 英照院31世浩志和尚の退董後、32世襲名。
昭和59年5月28日 師の遷化を受け 河北町 定林寺へ転住。34世となる。
特 記 : 昭和37年10月30日 南泉寺20世 宏覚和尚(実父)について得度。
駒沢大学時代は、明朗で実直な人柄から同級生の信頼を集め、大学祭財務局長、学友会事務局長を歴任。また、文武両道を是とし空手部に所属。各大会にて活躍した。その実力が認められ松濤館空手3段に昇段する。
昭和42年3月 駒澤大学文学部英米文学科を卒業。同年4月より神奈川県向上高校の教師として教鞭をとるも、母の逝去を縁に発心。教職を退き、翌43年より大本山永平寺に安居。同年 清矩和尚再会にて立身、第一座を勤める。仝44年 清矩和尚の室に入り嗣法。
昭和47年 新庄市 英照院32世初住。同時に青年僧侶のさらなる資質の向上と大衆への布教・教化を目的に最上地区青年会を設立。初代支部長となり研修会や布教教化事業を展開する。その後、山形曹洞宗青年会会長に推挙され第4代会長に就任。
昭和59年 師の遷化を受け 河北町 定林寺へ転住。34世となる。
仝14年には高祖大師750回大遠忌の焼香師に推挙され、永平寺に拝登。一片の香を焚き、報恩の誠を捧げた。
法 嗣 : 寶圓清光

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